2016年05月03日

憲法記念日に思う




国がらをただまもらんと


いばら道


すすみゆくともいくさとめけり







【昭和天皇御製】











日本国憲法は昭和22年(1947年)の今日、5月3日に施行され、憲法としての効力が発生しました。

つまり、国民主権が謳われたのも、天皇を国の象徴とすることも、第2章第9条(戦争の放棄)もこの日から始まりました。

憲法改正の議論が起こっている昨今ですが、せっかくの憲法記念日ですから、わが国の憲法についてちょ、と考えるいい機会だと思います。





まず、わが国の歴史を振り返れば、日本国が本格的な法治国家として機能しだしたのは「大宝律令」からです。

その成立には多くの為政者の不屈の魂が必要でした。





第35代皇極天皇の御代、当時の日本は各地の豪族が自分達の領地を支配していました。

中大兄皇子(なかのおうえのおうじ=後の天智天皇)は、豪族の中でも最も勢力が大きく、天皇に娘を嫁がせて外戚となることで天皇の威光を利用して横暴を尽くす、蘇我蝦夷(そがのえみし)とその息子、蘇我入鹿(そがのいるか)を滅ぼしました。

当時の統治体制は、各地の豪族それぞれの力に支えられたものであり、その上に立つ国家の屋台骨は非常に危ういバランスの上に成り立っていました。




この約40年前、そのころからすでに強大な力を持っていた蘇我蝦夷の父親である蘇我馬子を政治的に懐柔する為、皇太子であった聖徳太子は、あらん限りの慈愛と譲歩を積み重ね「和を以って貴しとなす」と決めた豪族合議制でしたが、すでに限界であったということでしょう。

第32代崇俊天皇の即位は、蘇我馬子の推薦があったからこそなのに、崇俊天皇は馬子によって暗殺され、また続く第33代推古天皇の御代には、馬子が葛城県(奈良盆地南西部)の支配権を要求。

これは、推古天皇の高い統治意識にて阻止されましたが、蝦夷自身は、推古天皇崩御後の皇位継承者の選定で、聖徳太子の息子の山背大兄王(やましろのおうえのおう)を推す境部摩理勢(さかいべのまりせ)を暗殺。

第34代舒明(じょめい)天皇の即位に成功、山背大兄王は蝦夷の息子である入鹿に追い詰められ自害されました。

蘇我氏は三代にわたり、天皇を蔑ろにし、皇室の人々の命を亡きものにしてきたのです。





この、国家に対して横暴の限りを尽くす蘇我入鹿に、自らの剣で天誅を下したのが、舒明天皇の第一皇子である中大兄皇子でした。

「蹴鞠の会」から交友が始まった親友中臣鎌足(なかとみのかたまりかまたり=後の藤原鎌足)と計画し、三韓の調の儀式の中、自身の母親でもある第35代皇極天皇の御面前で入鹿を誅したのです。

これが、乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)です。





実は、中大兄皇子の中には、蘇我氏の誅略だけがあった訳ではなく、この日本国を豪族の集合体ではなく、天皇を中心とする中央集権国家とするというビジョンがあったのです。













当時の中国大陸では隋を滅ぼした唐が周辺諸国を次々と冊封に飲み込んでいました。



冊封とは、周辺国の君主が中国大陸の皇帝と君臣関係になり、文化と軍事力の恩恵を授かる代わりに朝貢するというもので、世界の中心である漢民族は華であり、その周辺民族は劣っているという自惚れである中華思想に裏打ちされた国際秩序でした。

実際には通常の外交ではなく、数に物を言わせた人海戦術、軍事力を背景にした恫喝外交そのもので、朝貢によって周辺諸国の優れた文化文明を貪欲に掻き集めていたのです。



これは、ただの想像ですが、蘇我氏は冊封に倣って大陸を支配する漢民族の皇帝と君臣関係を結び、その軍事力を背景に天皇を追い落とす勢いの威厳と権力を手に入れようとしていたのではないでしょうか?



まあ、想像は置いておいて、中大兄皇子は、外からひたひたと迫る覇権国家唐の足音を聞きながら、まずは内部の敵、天皇を蔑ろにする蘇我氏を滅ぼし、一刻も早く中央集権体制を築きたい!とおもっていたのではないでしょうか?

乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)後、第36代孝徳天皇と中大兄皇子は神々に「暴虐は誅した。これより後は君に二政なし。臣に二朝なし」と誓いました。



これより政治の改新が始まり、全国の豪族の私有地と私有民は天皇のもと「公地公民」となり、戸籍と計帳により、分け与えられた土地と、それぞれに見合う税が決められました。

こうして中大兄皇子と中臣鎌足が中心となり、中央集権化が進められました。



これが世に言う「大化の改新」です。



これから約60年ほどの時間をかけて、中央集権体制が段々整っていき、また国の「法」というものが出来上がっていき、大宝元年に「大宝律令」として結実していきます。




大陸に超覇権大国である唐が出現したことにより、当時の日本人を刺激し、国家意識の発芽を促進させ、独立自尊の中央集権体制を築き上げるに至りました。

これを成文化したものが大宝律令でした。

天皇を中心とし、二官八省の機構を骨格とした政府を定め、律学博士(りつがくはかせ=後の明法博士=律令格式を教授する官職)を全国に派遣し律令の講義をさせ、大宝二年に「大宝律令」は諸国に頒布され、「日本」という国号もこの同時期に定められたといわれています。





中大兄皇子が中臣鎌足と志した乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)や大化の改新からやく60年後、粟田真人(あわたのまひと)は、白村江の戦い以来30年にわたって途絶えていた遣唐使となり、大宝二年六月に大宝律令を携え、入唐。

国交回復、律令制度の確立、日本という国号の通達を行い、翌年には則天武后に謁見。

粟田真人に接した唐人たちは「好んで経史を読み、文を属するを解し、容止温雅なり」と絶賛したそうです。周辺国を貪欲に冊封へ飲み込んできた唐でしたが、粟田真人を通じて、日本には独立と自尊の気風と気概わ感じたに違いありません。

大宝律令をはじめとして、これまで日本の国体と国益を守る為、多くの日本人の魂と命をかけての政治活動によって、現在の日本国があるのです。



当然ですが、彼らは、実現の見込みの無い馬鹿げたマニフェストを票取りの為に掲げることなどありませんでしたし、平等平等といいながら無差別にバラ巻きをしたり、無差別に搾取したり、返す見込みの無い借金中毒になることが分かっていながら無計画に予算を通すこともありませんでした。

また、受けられる助成金は根こそぎ受けて、脱税したり、国政の為だと自分の変わりに秘書を逮捕させるようなこともありませんでした。

同じ時代に生きていたとしても、彼らはそんなことを露ほども考えることは無かったでしょう。



日本国憲法が施行されて今年で69年、氾濫する情報の渦に巻き込まれ、近視眼的に、また、限定的に、或いはその時の都合で議論してしまいがちなのが我々人間の悪い癖なのですが、この憲法記念日といういい機会に、私達日本人のご先祖様が、どのような志で、政(まつりごと)を律し、国民に令してきたのか。



そのことについて知った上で、これからのあり方について思いを馳せることも大切なことなのではないかと思うのです。







超訳日本国憲法 [ 池上彰 ]
価格:842円(税込、送料無料)




posted by 大塚陽一 at 13:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日本スイッチ
過去記事でも、コメント大!大!大!歓迎です! あなたの一言が、私のモチベーションにつながります! コメントお待ちしておりま〜す(^▽^)/
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
いつも、ご来訪ありがとうございます! またのお越しを、お待ちしておりま〜す(^▽^)/ 拙ブログ内で使用している画像・映像キャプチャー等は、あくまで記事の内容や感想を文章のみでは正確に伝えにくく、そのままだとかえって不誠実だと感じた場合、それを補足したいという点と、拙記事を通して、映画や音楽、絵画などの芸術、書籍、歴史への啓蒙と文化の熟成及び芸術復興を奨励したいという拙ブログの考えにより、 映画・音楽・絵画などの芸術や書籍などの学術研究・ゲーム等娯楽に対する敬意の姿勢で使用しております。 よって著作権等は、全て各製作者・会社に帰属します。 画像・映像キャプチャー等の使用に関して表記の問題がある場合、又は削除依頼がある場合は迅速に応対させていただきますのでご連絡ください。 皆様のご理解とご協力のほど、何卒よろしくお願いいたします。