2007年12月13日

今日の一言:吉川 英治

「晴れた日は晴れを愛し、

雨の日は雨を愛す。

楽しみあるところに楽しみ、

楽しみなきところに楽しむ」



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吉川 英治1892年8月11日 - 1962年9月7日

時代小説「宮本武蔵」「私本太平記」などで有名な国民文学作家。





本名、英次(ひでつぐ)。



1892年、現在の横浜市に、旧小田原藩士吉川直広の次男として生れる。

10歳のころから雑誌に投稿をするようになり、時事新報社の雑誌『少年』に作文が入選。

その後、異母兄と父との確執もあり、小学校を中退。

いくつもの職業を転々とし、1914年、のちに結婚する赤沢やすを頼って大連へ、この頃書いた小説3編が講談社の懸賞小説に入選。

1921年に母が没すると、翌年より東京毎夕新聞社に入り、次第に文才を認められ「親鸞記」などを執筆。

関東大震災により同社解散後、様々なペンネームで作品を発表し、「剣魔侠菩薩」を講談社の「面白倶楽部」に連載、作家として一本立ちする。

1925年より創刊された「キング」誌に連載し、初めて吉川英治の筆名を使った「剣難女難」で人気を得た。

同誌は講談社が社運をかけた雑誌であるが、新鋭作家吉川英治はまさに期待の星であり、「坂東侠客陣」「神洲天馬侠」の2長編を発表し、多大な読者を獲得した。

執筆の依頼は激増、毎日新聞からも要請を受け、阿波の蜂須賀重喜の蟄居を背景とした傑作「鳴門秘帖」を完成。

これを収録した『現代大衆文学全集』もよく売れ、また作品も多く映画化された。

1935年、「宮本武蔵」の連載開始。

剣禅一如を目指す求道者宮本武蔵を描いたこの作品は、太平洋戦争下の人心に呼応し、新聞小説史上かつてない人気を得、4年後の1939年7月21日まで続いた大衆小説の代表作となった。

巨額な印税が入るようになったが、貧しい時から寄り添っていた妻やすは、この急激な変化についていけず、1937年離婚。

同年、池戸文子と再婚。

1945年の終戦後は、敗戦のショックから一時断筆となるが、親友菊池寛の励ましなどにより、「高山右近」「大岡越前」で本格的に復活する。

1950年より、敗れた平家と日本を重ね現した、7年におよぶ大作、「新・平家物語」の連載を開始、この作品で第1回菊池寛賞を受賞。

その後、「私本太平記」「新・水滸伝」を連載。

1960年、文化勲章。

私本太平記」の連載終了間際に肺がんにかかり、しばらく闘病するも悪化し、1962年9月7日、国立がんセンターで死去。

享年70歳。

従三位勲一等に叙せられ、瑞宝章を贈られた。

現在、東京の青梅市に記念館がある。











本日、ニュースで2007年を象徴する漢字一文字に「」という時が選ばれたことを知りました。

おのれの「まこと」を求め、一心不乱に人生を生きようとする求道者的な主人公や、道理道徳を説くような作品を多く描いた氏の小説は、中学生の頃、よく読んで、いくつもの気付きを得ることが出来ました。

氏が、今の日本を見たら、何と言うでしょうね。

posted by 大塚陽一 at 12:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生きるスイッチ
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