八年前、私は(兄であるジョンFケネディの)選挙参謀でした。
だから、皆さんが示してくださった努力と献身とが、
今日の大きな成果をもたらしてくれた意味をよく理解できるのです。
本当にありがとう・・・
次はシカゴです。
そこでも勝ちましょう。
こう演説を締めて、Vサインを示しながら、ボビーがアンバサダー・ホテルの演台を降りたのが、1968年6月5日0時13分でした。
それから部屋を出て、左へ曲がり祝賀会場へ行く予定でした。
しかし、予定されていた記者会見まで残された時間が残り僅かになっていたことから、予定を急遽変更し、直接記者団が控えている会見場へと向かう為、右へ曲がりました。
廊下のスロープを少し下って、そのまま真直ぐに調理室の方へ。
彼の通り道を開けるように左右両側に立っている支持者の人々と握手を交わしながら、ボビーはゆっくり進んで行きました。
ちょうどボビーが製氷機の並ぶ狭い通路に差し掛かり、そこにいた皿洗いのジュアン・ロメロと握手をするために左を向いた時、数発の銃声が鳴り響きました。
すべては、一瞬の出来事でした。
床に倒れたボビーの頭と右の脇の下から大量の血が流れていました。
そして、その約26時間後の6月6日1時44分にボビーは帰らぬ人となりました。

私が、ジャックとボビーのケネディ兄弟に興味を持ったきっかけは、やはりジャックの暗殺事件の謎からでしたが、調べれば調べるほど、ジャックと、とりわけボビーの人間性や、やり遂げたいと願った理想に惹かれていきました。
私の知る限り、人の価値や国の価値を経済や物質の豊かさだけで測ることの愚かさをはじめて言動に乗せた政治家だと思います。
そういう目に見えるもの、手に取れるものだけでなく、目に見えないもの、決して数値化できないものにこそ、人間やコミュニティの価値や幸福というものがあるのではないかと問いかける演説をした3ヵ月後に彼は亡くなりました。
その生き様や人生に迫りたくて「ボビー・ケネディ考」というカテゴリを設けました。


もちろん、俗に言うJFK暗殺事件自体の謎に迫るのも、私のライフワークですが、ジャックとボビーの生き様を出来るだけ分かりやすく紹介し、その成そうとしていた世界が、いかに現代の世界に必要とされるような理想的な世界であったのかに迫れたら・・・と思っております。
さて、冒頭でボビーことロバート・フランシス・ケネディ(RFK)が暗殺された状況を簡単に書きましたが、ボビー暗殺犯と目される犯人は、JFK暗殺実行犯オズワルドが起訴前に射殺されたのと対照的に、しっかり逮捕され、動機も語られ、未だ尚刑務所に服役中であるので、ボビーの暗殺事件自体には謎がないように思われていますが、実は色々と陰謀を匂わせるような謎があります。
先に述べたように、私はジャックとボビーの生き方や、望んだものをこの項目で描きたいのですが、「死に様を見ると生き様が分かる」という言葉を信じて、まずボビー暗殺事件の謎に触れるところから、ボビー・ケネディ考を始めて行きたいと思います。
ボビーを暗殺した犯人として逮捕された24歳のパレスチナ移民サーハン・ベシャラ・サーハンは終身刑を言い渡され、2016年現在も刑務所で服役中です。

複数の目撃証言によると、サーハンは調理室の中を移動するボビーの前方約1〜2メートル辺りに現れ、8発入り22口径のリボルバーピストルを発砲、ボビーの前に立って先導していたホテルの副支配人カール・ウェッカーと、複数の人間に組み付かれて、取っ組み合いの最中にも発砲を繰り返し、装填した8発全部撃ち尽くして、ボビー以外にも5名を負傷させました。
つまり、サーハンがボビーの前、つまり進行方向から撃ったことは明白なのですが、検視報告書によるとボビーの致命傷は、硝煙反応から判断して僅か10センチほどの至近距離から撃たれた右耳の後ろ下部の傷で、そこから入った弾頭は脳内で炸裂していました。
ボビーは計3発撃たれていましたが、他の2発は右腋下の裏から入り、1発は腰で留まり、もう1発は首の裏で止まっていました。
さて、検視報告に記載されているボビーの3つの傷はすべて「後ろから前」となっていました。つまり・・・