つのつくうちは
ひざのうえ
【子育てに関する日本の言い伝え】
こどもの日(こどものひ)とは、日本における国民の祝日の一つで、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」という趣旨で、1948(昭和23)年7月公布・施行の祝日法によって制定されたゴールデンウィーク(GW)を構成する休日の一つです。
この日の前身は、もともと旧暦の五月五日のこどもの日で、グレゴリオ暦の同じ5月5日に移されたものでした。
旧暦五月というと梅雨の時期であり、体調不良、病気、不衛生を起こさない為に、この時期にもっとも盛りのある菖蒲(しょうぶ=サトイモ科の植物、花ショウブとは異種)を使い、酒を飲んだり風呂に浸かったりすることで健康と繁栄を賜る祀りで「五月忌み」といわれていました。
特に田植えの時期とも重なり、秋の豊作を願って、巫女や神官は祓い清め、早乙女(若い清らかな女性のこと)が儀式として最初に田植えをしました。
植物と自然の生命力をいただき、梅雨と、その後の続く暑さ厳しい夏の季節に向けて、人々の力と気持ちを集め乗り越えようと祀ることでした。
一方、大陸では、三世紀ごろ楚という国で、これも旧暦五月五日に「ちまき」を食べる風習ができて、「端午」という節句(年中行事を行う季節の節目)のひとつになったといわています。
この楚の国の国王の側近が失脚し、失意の内に川に身を投げるという事件があって、人望厚かったその側近を偲んで国民が、川に「ちまき」を投げ入れることで、魚がこの側近の身体を喰いちぎらないように、と願ったと言い伝えられています。
まさに中国っぽい血なまぐさい言い伝えですね。
さて、「五月忌み」の祀りに「端午」の風習を受け入れた当時の日本人は、これを日本人の健康と日本人社会の繁栄を祝う「端午の節句」という祀りとしてハイブリッド(異なった要素を混ぜ合わせて・または組合わせてよりよく)して伝えてきました。
これが、武家中心の社会になると必然的に、当時の社会規範であった武家のあととり即ち男の子の成長が大いに祝われることになりました。

菖蒲(しょうぶ)が「尚武(武道・武勇を重んじること)」や「勝負」と同じ発音であることや、葉の形が刀に似ていることも武家に気に入られ、文化としての広がりを助けました。

大陸から伝わってきた楚王の側近への餞として川に投げ入れられた「ちまき」は、日本では殺菌と防腐のため、笹や藁で包んだり、灰汁で煮たりされ、より洗練された食文化となりました。

また、柏は新しい葉の芽が出るまで古い葉が落ちないことから、その柏葉で包む柏餅が、武家の間で「家系が絶えない」という縁起物として好まれました。

戦乱の世が終わり、平和な江戸時代になると、先祖伝来の鎧、兜、刀が虫干しを兼ねて奥座敷に飾られるようになりました。
男児の活き活きとした様子を表現する五月人形も好まれました。

そして、この日、玄関には幟(のぼり)をたて家長が男児に、侍らしく世の中の手本となるよう訓示を垂れました。
その幟を承認の洒落た趣向で鯉形にしたものが「こいのぼり」で、これは大陸の故事で、黄河の中ほどにある龍門という流れの強い滝を登りきると龍になるとされる鯉をデザインしたものだと言われています。

色々と「こどもの日」や「端午の節句」を調べてみると、「男の子のまつり」とか「古代中国から伝わった」とかいう説明に出逢いますが、それらは間違いや勘違いや欺騙(ぎへん)や故意のディスインフォメーション(偽情報)だと思います。
「端午の節句」は、日本人の健康と日本社会の繁栄の為に日本で生まれた祀りなのです。
日本人の特長であるハイブリッドの一つの要素(ちまきや滝登り)を大きく取り上げて「中国伝来の風習」などと決め付ける姿勢は、いかがなものかと思います。
男女の別なく、次代を担うこども達の健康と長寿、日本社会の繁栄を祝う日本古来から伝わる伝統的な祀りということで誇りを持っていいのではないでしょうか。
3月3日がひな祭りで、女の子の日で、5月5日のこどもの日が、どちらかというと男の子の日というイメージが強いため、間の4月4日がおかまの子の日なんて笑い話もありますが・・・
posted by 大塚陽一 at 11:38
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