2017年01月01日

謹賀新年。皇紀二千六百七十七年、平成廿九年です。





スゲーッ爽やかな気分だぜ。



新しいパンツをはいたばかりの正月元旦の朝のよーによォ〜ッ







荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険」より】










明けましておめでとうございます。

旧年中は格別のご愛顧とお引き立てを賜り、厚く御礼申し上げます。

本年も何卒よろしくお願い申し上げます。



昨年は、皆様のご縁に生かされているということを強く感じると共に、大切な方、身近な方が、これまでになくたくさん亡くなってしまい、否が応にも自分自身の死を強く意識せずには要られない年でしたが、大晦日を越え、今回も無事に新年を迎えることが出来ました。

ありがとうございます。

皇紀二千六百七十七年、平成廿九年の元日を迎え、少しお正月について考えてみようと思います。



元日を含む数日を「お正月」と呼んでおりますが、元日とは、言うまでも無く一年の最初の日ということですね。



一年というのは地球が太陽の周りを一周する期間のことです。

しかしながら、公転の起動自体にスタートやゴールという区切りはついていません。

どのタイミングから始めようと一年の長さは変わりません。

ただ、何か公転中に違いがあるとすれば、それは地軸の傾きによって起こる季節の違いでしょう。

地軸が太陽の側に傾く位置関係の時期が我々にとっての夏、太陽の反対側に傾く時期が冬となります。



日本は明治以降、西欧近代諸国と関係を深くする為に、暦をそれまでの太陰太陽暦から太陽暦に変更しました。

具体的に言うと、江戸期まで使っていた「天保歴」を改め、欧米基準であった「グレゴリオ暦」に替えました。

それまでに改暦は何度もありましたが、太陰太陽暦から太陽暦に替えたのは、この時だけなので、我々日本人からすると、まだまだ太陽暦は馴染みの浅い暦だと言えます。





さて、この暦についてまずは簡単に確認しておきたいのですが、暦は大きく分けて「太陰暦」、「太陽暦」、「太陰太陽暦」の三種類あります。
posted by 大塚陽一 at 19:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日本スイッチ

2016年09月22日

秋分の日に想う




未来は現在と同じ材料で出来ている

    



                


シモーヌ・ヴェイユ







秋分の日は、もともと明治以前は、秋分日に最も近い戌の日が秋社日として、氏子が氏神たる神社に参拝し、実りある収穫に感謝する日でした。

1878年(明治11年)には、歴代天皇や主たる皇族の忌日を春と秋にまとめて「皇霊祭」と定めて奉祀すると決め、秋の日を「秋季皇霊祭」と呼びました。

そして、1948年(昭和23年)に公布・施行された国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)によって制定されたもので、「祖先を敬い、なくなった人々を偲ぶ」ことを趣旨としてあります。

昼夜が等しく均整された日に、先祖の霊を祀る気持ちになるのは、神に祈り仏を拝んできた日本人にとって自然なことかもしれません。



あなたは、どのような御先祖様をお持ちでしょうか?

自分の家系や家柄などについて、考えてみたことはありますか?





私は・・・実は幼少の頃から自分の出自に興味があったため、現在進行形ではありますが、個人的に調べてみたりしていました。

私の「大塚」家は、3〜4代前まで御先祖の記録が残っていたことと、御先祖の土地がどこにあったのかも記録が残っていたこと、士族であったことなどから、福岡藩(黒田藩)で黒田家に仕える武士だったことは難なく分かりました。

しかし、ここからが難航しました。

なんせ、黒田藩とその支藩(秋月藩など)に仕える大塚氏はかなり多く、家紋も多数存在し、一体どの大塚家が、私の「大塚」家なのかというところまで特定するのは、現時点ではかなり難しいといえます。

記録に多数残る大塚家’Sは、結構魅力的な人々が多いのです。

中でも興味をそそるのは、宮本武蔵の二天一流を学んだ大塚氏が存在すること。

わが「大塚」家の代々の男達も剣道は強く、私の祖父勝俊も「修猷の小天狗」と異名を取っていたほどの妙手、直径ではないまでも、血筋はひいているのではないか?と、夢を膨らませていました。





それから数年たち、ネットが発達してきて、色々と判明してきたことがあります。

まず、福岡藩の領地が分かったこと↓


福岡藩領域図(慶長期).png



この福岡藩領域図によると、やはりわが「大塚」家の先祖代々の土地は福岡藩の領地内に当るので、福岡藩士であったことは、ほぼ間違いないでしょう。

でも、それ以上はなかなか進展しませんでした。

そうこうしている内に、ふとしたきっかけで、あの有名な「黒田騒動」の原本に目を通す機会があり、その中の記述に、福岡藩の船手頭大塚三郎左衛門という人物を見つけました。

そういえば、私の「大塚」家の(過去)所有していた土地は海岸線沿いで、まさに船を操作したりするには格好の場所柄でした。


まぁ、家紋から言って直系ではないにせよ、傍系支家分家であったという線が一番論理的な推理になりそうです。


さて、自身の出自に興味を持ったり、自分と同じ姓を持つ歴史上の人物に興味を持つことは、心理学的に見ても、とても意義深いことですので、これからも細々と研究を続けていきたいですし、何か新しい発見があれば、すぐにブログにアップしたいと思います。



あなたも、時間を遡ってご自身のルーツを見つける旅に出てみてはどうですか?


意外な事実が分かったりして、面白いかもしれませんよ(^▽^)











posted by 大塚陽一 at 18:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日本スイッチ

2016年05月05日

こどもの日に思う





つのつくうちは

ひざのうえ





【子育てに関する日本の言い伝え】











こどもの日(こどものひ)とは、日本における国民の祝日の一つで、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」という趣旨で、1948(昭和23)年7月公布・施行の祝日法によって制定されたゴールデンウィーク(GW)を構成する休日の一つです。


この日の前身は、もともと旧暦の五月五日のこどもの日で、グレゴリオ暦の同じ5月5日に移されたものでした。


旧暦五月というと梅雨の時期であり、体調不良、病気、不衛生を起こさない為に、この時期にもっとも盛りのある菖蒲(しょうぶ=サトイモ科の植物、花ショウブとは異種)を使い、酒を飲んだり風呂に浸かったりすることで健康と繁栄を賜る祀りで「五月忌み」といわれていました。

特に田植えの時期とも重なり、秋の豊作を願って、巫女や神官は祓い清め、早乙女(若い清らかな女性のこと)が儀式として最初に田植えをしました。

植物と自然の生命力をいただき、梅雨と、その後の続く暑さ厳しい夏の季節に向けて、人々の力と気持ちを集め乗り越えようと祀ることでした。




一方、大陸では、三世紀ごろ楚という国で、これも旧暦五月五日に「ちまき」を食べる風習ができて、「端午」という節句(年中行事を行う季節の節目)のひとつになったといわています。

この楚の国の国王の側近が失脚し、失意の内に川に身を投げるという事件があって、人望厚かったその側近を偲んで国民が、川に「ちまき」を投げ入れることで、魚がこの側近の身体を喰いちぎらないように、と願ったと言い伝えられています。

まさに中国っぽい血なまぐさい言い伝えですね。




さて、「五月忌み」の祀りに「端午」の風習を受け入れた当時の日本人は、これを日本人の健康と日本人社会の繁栄を祝う「端午の節句」という祀りとしてハイブリッド(異なった要素を混ぜ合わせて・または組合わせてよりよく)して伝えてきました。

これが、武家中心の社会になると必然的に、当時の社会規範であった武家のあととり即ち男の子の成長が大いに祝われることになりました。







菖蒲(しょうぶ)が「尚武(武道・武勇を重んじること)」や「勝負」と同じ発音であることや、葉の形が刀に似ていることも武家に気に入られ、文化としての広がりを助けました。







大陸から伝わってきた楚王の側近への餞として川に投げ入れられた「ちまき」は、日本では殺菌と防腐のため、笹や藁で包んだり、灰汁で煮たりされ、より洗練された食文化となりました。






また、柏は新しい葉の芽が出るまで古い葉が落ちないことから、その柏葉で包む柏餅が、武家の間で「家系が絶えない」という縁起物として好まれました。






戦乱の世が終わり、平和な江戸時代になると、先祖伝来の鎧、兜、刀が虫干しを兼ねて奥座敷に飾られるようになりました。

男児の活き活きとした様子を表現する五月人形も好まれました。







そして、この日、玄関には幟(のぼり)をたて家長が男児に、侍らしく世の中の手本となるよう訓示を垂れました。

その幟を承認の洒落た趣向で鯉形にしたものが「こいのぼり」で、これは大陸の故事で、黄河の中ほどにある龍門という流れの強い滝を登りきると龍になるとされる鯉をデザインしたものだと言われています。







色々と「こどもの日」や「端午の節句」を調べてみると、「男の子のまつり」とか「古代中国から伝わった」とかいう説明に出逢いますが、それらは間違いや勘違いや欺騙(ぎへん)や故意のディスインフォメーション(偽情報)だと思います。



「端午の節句」は、日本人の健康と日本社会の繁栄の為に日本で生まれた祀りなのです。



日本人の特長であるハイブリッドの一つの要素(ちまきや滝登り)を大きく取り上げて「中国伝来の風習」などと決め付ける姿勢は、いかがなものかと思います。

男女の別なく、次代を担うこども達の健康と長寿、日本社会の繁栄を祝う日本古来から伝わる伝統的な祀りということで誇りを持っていいのではないでしょうか。


3月3日がひな祭りで、女の子の日で、5月5日のこどもの日が、どちらかというと男の子の日というイメージが強いため、間の4月4日がおかまの子の日なんて笑い話もありますが・・・
posted by 大塚陽一 at 11:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日本スイッチ

2016年05月04日

みどりの日に思う





雑草という草はないんですよ。



どの草にも名前はあるんです。



どの植物にも名前があって、

それぞれ自分の好きな場所を選んで生を営んでいるんです。



人間の一方的な考えで、

これを切って掃除してはいけませんよ



【入江相政「宮中侍従物語」より昭和天皇の御言葉】





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昭和の時代は、もともとゴールデンウィーク(GW)の4月29日が昭和天皇誕生日だったのですが、昭和64年1月7日に昭和天皇が崩御され、今上天皇が即位されたことを受け、「天皇誕生日」も今上天皇の誕生日に合わせて新しく12月23日に制定されたので、4月29日は一旦「みどりの日」と制定されました。

しかし、その後あらためて4月29日が「昭和の日」に定められ、それに伴ってもともと「国民の休日」であった5月4日が格上げされたという経緯があります。

もともと5月4日には、特に国を挙げて祝う理由や起源は持たず、連休を大型化する狙いで設けられた祝日でした。




「みどりの日」自体の名称の由来は、各界識者をメンバーとする小渕恵三官房長官(当時)の私的諮問機関(皇位継承に伴う国民の祝日に関する法律改正に関する懇談会)において、「昭和天皇は植物に造詣が深く、自然をこよなく愛したことから『緑』にちなんだ名がふさわしい」という主旨の意見が多数を占めたから・・・だ、そうです。




日本の季節や自然を愛した昭和天皇は、特に海洋生物と植物の研究に、熱心に取り組まれて、「その気になれば学位を取れる」として評されるほどでした。

海洋生物の研究にに関しては、ヒドロ虫(ヒドロゾア)の研究論文をご自身で著されたり、30種以上のヒドロ虫類の新種を発見され、海外でもこれらは「HIROHITO」名義で発表されています。


植物の研究に関しては、皇居、那須、伊豆など、ご自身に関わり深い場所の植物について調査研究されました。

これは四季折々の日本の美しい自然の秩序の中で神武天皇以来、森羅万象を畏れ崇め奉ってきた日本人の総意を受けて総括し、シャーマンとして祈り続けてきた歴代の天皇の一人として、歴代天皇との和衷協同の意識を持って研究に取り組まれたのではないかと拝察しております。



さて、当記事冒頭の言葉ですが、これは昭和天皇のお人柄をとてもよく表した御言葉だということで、よく上げられる言葉ですが、いつも言葉だけが独り歩きしているように感じられます。

その独り歩きを受けて、この言葉に違和感や不快感を覚える方々がいらっしゃるようです。

例えば・・・雑草以外にも「雑」のつく言葉は、「雑費」「雑誌」「雑用」「雑貨」「雑談」「雑学」「雑務」など、挙げればキリが無いほどたくさんあるのですが、これらはどれも「普通名詞」で、特定のものを表す「固有名詞」ではないことから、昭和天皇が雑草を誤って「固有名詞」として認識している、つまり昭和天皇の不明から来たエピソードだ、という意見。


例えば、植物を育てたり、庭を持っている人なら頷くところでしょうが、何を雑草と見るかは、その人次第で園芸植物と見る人もいれば、同じ植物をして雑草と見て、即座に抜く人もいる。

いずれにせよ、雑草が多く繁殖しすぎると、本来育てたいと思っていた植物が充分に育たなくなるので、バランスを取る為に雑草を見つけると即座に抜くという経験は、庭を持つ人、植物を育てている人なら、皆理解できることで、その証拠に雑草を駆除する為の除草剤なるものが、ホームセンターに行けば、山ほど売っている。

そういう現実を知らず、庭を手入れした侍従たちを叱るとは、お気楽で、庭を管理する者(侍従たち)の苦労も心遣いも察せず、実際を知らない不明な人物だからできることだ、という意見。



そこだけを見ると、各々ごもっともな意見ですが、これが、いつ、どのような時のお言葉なのかを知ることで、もっと昭和天皇のお心が知れるのではないでしょうか?


このお言葉は・・・
posted by 大塚陽一 at 16:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日本スイッチ

2016年05月03日

憲法記念日に思う




国がらをただまもらんと


いばら道


すすみゆくともいくさとめけり







【昭和天皇御製】











日本国憲法は昭和22年(1947年)の今日、5月3日に施行され、憲法としての効力が発生しました。

つまり、国民主権が謳われたのも、天皇を国の象徴とすることも、第2章第9条(戦争の放棄)もこの日から始まりました。

憲法改正の議論が起こっている昨今ですが、せっかくの憲法記念日ですから、わが国の憲法についてちょ、と考えるいい機会だと思います。





まず、わが国の歴史を振り返れば、日本国が本格的な法治国家として機能しだしたのは「大宝律令」からです。

その成立には多くの為政者の不屈の魂が必要でした。





第35代皇極天皇の御代、当時の日本は各地の豪族が自分達の領地を支配していました。

中大兄皇子(なかのおうえのおうじ=後の天智天皇)は、豪族の中でも最も勢力が大きく、天皇に娘を嫁がせて外戚となることで天皇の威光を利用して横暴を尽くす、蘇我蝦夷(そがのえみし)とその息子、蘇我入鹿(そがのいるか)を滅ぼしました。

当時の統治体制は、各地の豪族それぞれの力に支えられたものであり、その上に立つ国家の屋台骨は非常に危ういバランスの上に成り立っていました。




この約40年前、そのころからすでに強大な力を持っていた蘇我蝦夷の父親である蘇我馬子を政治的に懐柔する為、皇太子であった聖徳太子は、あらん限りの慈愛と譲歩を積み重ね「和を以って貴しとなす」と決めた豪族合議制でしたが、すでに限界であったということでしょう。

第32代崇俊天皇の即位は、蘇我馬子の推薦があったからこそなのに、崇俊天皇は馬子によって暗殺され、また続く第33代推古天皇の御代には、馬子が葛城県(奈良盆地南西部)の支配権を要求。

これは、推古天皇の高い統治意識にて阻止されましたが、蝦夷自身は、推古天皇崩御後の皇位継承者の選定で、聖徳太子の息子の山背大兄王(やましろのおうえのおう)を推す境部摩理勢(さかいべのまりせ)を暗殺。

第34代舒明(じょめい)天皇の即位に成功、山背大兄王は蝦夷の息子である入鹿に追い詰められ自害されました。

蘇我氏は三代にわたり、天皇を蔑ろにし、皇室の人々の命を亡きものにしてきたのです。





この、国家に対して横暴の限りを尽くす蘇我入鹿に、自らの剣で天誅を下したのが、舒明天皇の第一皇子である中大兄皇子でした。

「蹴鞠の会」から交友が始まった親友中臣鎌足(なかとみのかたまりかまたり=後の藤原鎌足)と計画し、三韓の調の儀式の中、自身の母親でもある第35代皇極天皇の御面前で入鹿を誅したのです。

これが、乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)です。





実は、中大兄皇子の中には、蘇我氏の誅略だけがあった訳ではなく、この日本国を豪族の集合体ではなく、天皇を中心とする中央集権国家とするというビジョンがあったのです。






当時の中国大陸では
posted by 大塚陽一 at 13:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日本スイッチ
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